はじめに
押し入れの奥から、未使用のタオルの箱が出てきた。 包装紙のまま、角だけが日に焼けている。 その隣には、書き味を試した形跡のない万年筆。
実家の片づけは、モノの整理のはずだった。 けれど出てきたのは、親が使わなかったお金の形だった。
「いつか使う」の置き場所
親は団塊の世代だ。 高度経済成長を走り、オイルショックを見てきた。 株の話になると、決まって「株は危ない」と言った。私が高校生の頃から、何度も。
だから資産は預金が中心だった。 増やすことより、減らさないことを選んだ世代なのだと思う。
引き出しには、包装されたままの贈答品が並んでいた。 「いいものだから、いつか」と取っておいたのだろう。 その「いつか」は、とうとう来なかった。
使わなかったのか、使えなかったのか
最初は、もったいないと思った。 使えばよかったのに——そう口にしかけて、やめた。
片づけを続けるうちに、見え方が変わったのだ。 あれは我慢の跡ではなく、備えの跡だったのかもしれない。
何かあったとき、誰にも頼らずに済むように。 子どもに迷惑をかけないように。 使わなかったお金は、使わずに済んだお金でもあった。
箱の中身より、箱を取っておいた理由のほうが重かった。
ざっと足してみて、分かったこと
片づけの途中で、相続のことが頭をよぎった。 相続税の基礎控除は「3,000万円+600万円×法定相続人の数」。 ざっと足してみたら、超えていなかった。
けれど大事なのは、そこではない。 計算するまで、分からなかったということだ。
相続税がかかるのは亡くなった人の約1割(令和6年分の課税割合10.4%)で、多数派ではない。 それでも、自分の家がどちら側かは、数えてみるまで誰にも分からない。
不安の正体は、金額ではなかった。知らないことだった。
減らさない自由と、選べる自由
親のやり方を、古いとは思わなくなった。 使わなかったお金は、親にとっての選択肢だったのだ。 体が弱っても、家を直すことになっても、自分で決められる余地。
経済的自由という言葉を、私は長く「働かなくていい状態」だと思っていた。 違ったのかもしれない。 選択肢を持つとは、決めるときに誰かの顔色をうかがわなくていい、ということではないだろうか。
ただ、親と私で違うところもある。 額面が減らなくても、同じ金額で買えるものは減っていく。 だから私は生活防衛資金を個人向け国債(変動10年)へ移した。 物価に勝てるとは限らない。それでも、置いたままにはしたくなかった。
まとめ
使わなかったお金は、無駄ではなかった。 それは、選ばずに済ませるための余白だった。
ただ、余白は使われて初めて意味を持つ。 親の「いつか」が来なかったことだけが、静かに胸に残っている。
今日ひとつだけ——自分が「いつか」と言って先送りしているものを思い出してみてほしい。 それはお金かもしれないし、お金ではないかもしれない。

