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数字で説明できない支出を、家計から追い出さなくなった理由

経済的自由

はじめに

家計簿を眺めながら、支出の横に理由を書き込んでいた時期がある。 この支出は何のためか。使った分だけ、何が返ってくるのか。 説明できたものは残し、説明できなかったものには印をつけた。 印のついた行は、翌月から静かに消えていった。

数字で説明できるものだけを残していた

投資の判断は数字でできる。 コストは低いほうがいい。分散は効いているか。値動きに合わせて動かない。 その物差しは、迷ったときにいつも私を助けてくれた。

だから同じ物差しを、そのまま暮らしにも当てていた。 費用対効果。一回あたりの単価。年間に直すといくらか。 説明のつく支出だけが残り、家計はきれいに整っていった。

整っているのに、薄い

しばらく経って、妙な感覚に気づいた。 家計は軽くなったのに、暮らしの手触りが薄くなっていた。

削ったのは無駄ではなく、説明する言葉を持たないものだった。 帰り道に寄る店。読み返すか分からない本。誰かに渡す小さなもの。 どれも、金額の横に理由を書けなかった——ただ、それだけだった。

帳簿を分けるのは、悪い癖ではなかった

行動経済学に、メンタルアカウンティングという考え方がある。 理論にまとめたのは経済学者のリチャード・セイラーで、行動経済学への貢献でノーベル経済学賞を受けた人だ。

人は財布をひとつとして扱わず、用途ごとに心の中で帳簿を分ける。 不合理の例として語られることも多い。 だがセイラー自身は、分けること自体が使いすぎへの歯止めになると書いている。 もちろん、そのせいで余計なコストを払うこともある。

問題は、帳簿を分けていることではなかった。 どの帳簿に、どう分けるか——そこだけだったのかもしれない。

説明できない支出に、枠をつくった

そこで私は、追い出すのをやめて、逆に居場所をつくった。

  • 理由を説明できない支出のための枠をひとつ置く
  • 決めるのは上限の金額だけ
  • 中身も使い道も、後から問わない

数字で管理するのは金額だけ。説明は求めない。 それで家計が崩れることはなかった。 むしろ、他の支出の線引きのほうがはっきりした。 説明できないものが一か所に集まると、残りは説明できるものだけになるのだ。

経済的自由は、説明責任からの自由でもある

資産を積み上げるのは、選択肢を持つためだと思っていた。 働き方を選べる。住む場所を選べる。市場が荒れても慌てずに済む。

けれど選択肢とは、すべての行動に理由を用意しなくていい状態のことでもあるのではないだろうか。 支出のひとつひとつに根拠を求めるのは、自分に監査を課しているのと変わらない。 経済的自由を目指していたはずが、いつのまにか、自分を一番厳しく審査する立場になっていた。

数字は、決めかねたときに助けてくれる道具だ。 自分を裁くための物差しではなかった。

まとめ

数字で説明できない支出は、家計の穴ではなかった。 説明できないまま置いておける余白が、暮らしを支えていた。

削るのをやめて、枠をつくる。上限だけ決めて、中身は問わない。 今日ひとつだけ、「理由を書けないから」と我慢した支出を思い出してみてほしい。 それを枠に戻すかどうか——決めるのは、今でいい。

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