はじめに
駐車場代の引き落とし通知を、いつも見ずに閉じていた。
毎月の固定費のひとつ。 それだけの認識だった。
ある夜、なんとなく20年分をかけ算してみた。 画面に出た数字を、しばらく黙って見ていた。
一度だけ、20年でかけ算してみた
車にかかるお金は、月単位では小さく見える。
・駐車場代
・任意保険と自動車税
・ガソリン、車検、整備
・数年ごとの買い替え費用
どれも単体なら、外食を何回か我慢すれば消える額だ。
けれど20年という単位に置き換えると、桁がひとつ変わる。 仮に月5万円なら、20年で1200万円。
同じ額を積み立てに回していたら——そこまで考えて、手が止まった。
数字は正しいのに、腑に落ちなかった
その夜、私は「手放すべきだ」と結論を出しかけていた。
でも翌朝には、違う感覚が残っていた。
車は移動手段であると同時に、時間を買う道具でもある。 雨の日の買い物。親の通院。急な用事。
そこを削れば、たしかに1200万円は残る。 残った先で何をしたいのか——その部分が、すっぽり抜けていた。
数字が決めてくれるのは、方向ではない
若い頃、私は投資で大きな失敗をしている。 金額の大きさに引っ張られて、判断を急いだ結果だった。
コロナショックのときも、集中投資が生んだ含み損に耐えるのが精一杯だった。 そこから学んだのは、分散と、動かないという選択の重さだ。
数字は人を動かす力を持つ。 けれど、どちらへ動くべきかまでは教えてくれない。
20年分のコストも同じだった。 1200万円は答えではなく、問いだったのだ。
経済的自由は、持つか手放すかの外にある
私は結局、すぐに結論を出さなかった。
代わりに、車が自分の生活で何を担っているかを書き出した。 週に何回使うのか。 なかったとき、何で代替できて、いくらかかるのか。
そのうえで「今は持つ」と決めた。
決めたとたん、引き落とし通知が気にならなくなった。 金額は何も変わっていないのに、だ。
経済的自由とは、支出をゼロに近づけることではないのかもしれない。
選択肢を持つとは、いつでも手放せる状態のまま、あえて持ち続けられることではないだろうか。
金額に追われて手放すのは、選んだことにならない。 逆に、考えないまま持ち続けるのも、選んだことにはならなかった。
まとめ
20年でいくらか。 その数字は、たぶん想像より大きい。
でも、大きさに驚いたところで止めないでほしい。
今日ひとつだけ、自分の車がこれからの20年で何を担うのかを、紙に書き出してみてほしい。
残す理由が言葉になったとき、そのコストは重荷ではなくなる。

