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暴落を「待っている自分」に気づいたときの違和感

経済的自由

はじめに

相場が下がったニュースを見て、少しだけ嬉しかった。 すぐに我に返った。 なぜ自分は今「よし」と思ったのだろう。

積立を続けていると「暴落は買い場」という言葉に何度も出会う。 いつしか私は暴落を待つようになっていた。 安く買えるから。 たくさん仕込めるから。

でもある日、ふと気づいた。 暴落を待つということは——世界が悪くなることを望んでいるのではないか。

その違和感が、しばらく消えなかった。

「安く買いたい」は合理的なはずだった

理屈としては正しいのだ。 安いときに多く買えば平均取得単価は下がる。 長期で見ればリターンに差が出る。

私もそう信じていた。 だから相場が堅調な日々が続くと落ち着かなかった。 「今は高い」「ここで買うのは損だ」と感じていた。

含み益が増えても素直に喜べない。 もっと下がってから入りたかった——という気持ちがにじむ。

合理的な判断のつもりだった。 けれど心の動きは別のものだった。

暴落の裏側にあるもの

暴落とは何だろう。 数字が下がるだけの出来事ではない。

企業が苦しむ。 雇用が失われる。 生活が揺らぐ人がいる。

株価が半分になるとき、どこかで誰かの暮らしが壊れている。 「暴落よ来い」とは、それを受け入れるということだった。

私はそこまで考えていなかった。 ただチャートの数字だけを見ていた。

下がれば買う。 上がれば待つ。 その繰り返しの中で、相場の向こう側にいる人の存在を忘れていたのだ。

待つことで失っていた時間

もうひとつ気づいたことがある。 暴落を待っている間、私は何もしていなかった。

現金を握りしめ、下がるのを待つ。 でも暴落はいつ来るかわからない。 来年かもしれないし、10年後かもしれない。

その間に相場は淡々と上がっていく。 待てば待つほど「今さら買えない」という気持ちが強まる。

結局、最も高くついたのは暴落ではなかった。 待っていた時間そのものだった。

機会損失という言葉がある。 私にとってそれは教科書の概念ではなく、実感だった。

淡々と続けることの意味

暴落を待たなくなってから、気持ちが軽くなった。

毎月決まった日に一定額を積み立てる。 相場を見ない日が増える。 ニュースに一喜一憂しなくなる。

それは退屈に見えるかもしれない。 しかしその退屈さの中に、静かな安心があった。

上がっても下がっても、やることは同じ。 判断しなくていいという解放感。

投資に感情を持ち込まないことが、自分を守るのだと知った。

「待たない」ことで見えた景色

暴落を待たなくなったとき、投資以外のことに目が向いた。 仕事に集中できる時間が増えた。 休日を純粋に楽しめるようになった。

資産形成の目的は数字を増やすことではなかったはずだ。 経済的自由とは、お金に振り回されない状態のことだった。

暴落を待っている間、私はお金に支配されていた。 選択肢を持つとは、相場に人生を預けないということではないだろうか。

まとめ

暴落を待つ気持ちは自然なものだ。 誰だって安く買いたい。

ただ、その「待ち」の中に潜む感情には気づいておきたい。 誰かの不幸を望んでいないか。 待つことで自分の時間を犠牲にしていないか。

今日、もし相場が気になって何度もスマホを開いているなら——一度だけ画面を閉じてみてほしい。 その瞬間に感じる静けさが、本当に必要だったものかもしれない。

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